和習への意識
おぎゅうそらいの和習というかんがえかたについて
「和」のいしきから、もじとげんごのかんけいをはっきりさせたのは、おぎゅうそらいである。
また、そらいは にほんじんのつくる漢文(かんじだけでつくられるぶんしょう、ひらがなをふくまない)でよくしてきされる「和習」ということばをていぎした。
そらいは、「文戒」において、にほんごのえいきょうによって漢文のへんかがおこることを「和字」「和句」「和習」のこうもくにぶんるいしてせつめいしている。
「和字(WAJI)」とは、「和訓(WAKUN)」のために かんじのみでつくられたぶんしょう(漢文)のじゅんじょなどをかきまちがえることである。
たとえば「観」と「見」は、「和調(WACHO)、つまり くんよみ」ではどちらも「みる」とよむため、かんぶんを書くときにまちがえてしまったもののことである。
このしてきは、徂徠(そらい)のじだいだけでなく、たとえば、「聴」と「聞」のちがいは、いまでもぶんしょうをつくるときにさんこうにされる。
いちもじのときだけでなく、「命脈」や「遊戯三昧」のように、かんじだけでつくられているが、ちゅうごくでつくられたかんぶんには無い つかいかたのばあいも、「和字」とよんでちゅういしている。
「和句」とは、かんぶんの順序が、にほんごの文法にえいきょうされていることである。
そらいは、「 「ぜったいにそのほんでなければならない」のつもりで「不可必無其本」とかくのはまちがいであり、漢文では、「必不無其本」とするべき」 としてきしている。
もうすこしこまかい例(Vi du)、たとえば「只*」はまちがいで、「*只」とするべきだとしてきしている。
そらいは、かんぺきな漢文をかこうとしていたことがわかる。
そのこまかい点をしてきし、もっともはっきりとさせているのが「和習」である。