孫文をもって国父とする解釈は、じつは中国人の多くが受け入れていない。中華民国百年というのはでっちあげであり、孫文の革命政権なるものの実態は当時、南シナの四分の一の地域で成立しただけの、しかも西洋かぶれの知識人が興した「地域政権」でしかなく、もっと大胆な見方をすれば、「清朝崩壊百年」とみたほうがよいと楊海英氏がいう。
中華民国が「編安王朝」だという意味は、「北方民族の契丹人や燎朝、女真人の金朝の圧迫から逃れて、中国大陸の南東僻地に存命をはかった小さな南宋」を意味し、文化は高くても国防を怠ったため元朝に滅ぼされる。「中華民国」も、そうして意味では逆に百年も長らえていることは珍しいとみる。
日本では「辛亥革命百年」を記念してのシンポジウムが華やかだったけれど、孫文を過大評価した歴史観の名残りであり、「辛亥革命中心史観」で歴史を語っていると、「中国とそれ以外の世界の形成がみえてこなくなる危険性があると危惧しています。寧ろ「清朝崩壊百周年のほうが適切であろう」と楊海英氏は編集の意図をかたる。
対して、この銘名に異論をとなえるのが宮脇淳子氏である。
「第一に万里の長城の外側の狩猟民族出身の満州人が建てた清朝が、中華帝国最後の王朝といえるのか」
「第二に清朝は1911年の辛亥革命で崩壊したのではなく、翌1912年二月に皇帝が退位して平和裡に譲位したのである」こと、そして第三に「中華民国も中華人民共和国もはたして国民国家といえるか」