長沙の手前まで日本軍が進撃したとき蒋介石は長砂を焦土と化し、これを「日本軍がやったこと」と宣伝しながら重慶へ逃げた。長砂は焼け野原となった。
嘘はすぐにばれた。その前にも花園堤防を切って「日本の空爆による」と逆宣伝したが、大洪水の救援をしたのが日本軍だったことはすぐに知られるところとなった。堤防の決壊による洪水で、下流域の農民など80万人から百万人が死んだ。
蒋介石の逃避行は上海から南京、武漢、長沙、そして重慶。もっとも毛沢東はもっと遠くに「遠征」し、早々と陝西省の延安までにげて三年間、洞窟に隠れ住んだ。
その共産党が、「抗日戦争勝利70年」とかの軍事パレートを行うというのは噴飯ものであり、おこがましいのである。図々しいにも程がある。
長砂は湖南省の省都。この地域からは毛沢東、劉少奇、秋勤、そして朱容基ら、暴れん坊で性格や大胆、野卑な人間を産む土地である。